コンフォートホテル天童

〒994-0034 山形県天童市本町1-2-7

コンフォートホテル天童
↑JR山形新幹線・奥羽本線「天童駅」より徒歩1分!

JR天童駅徒歩30秒、リーズナブルな価格&充実の無料朝食サービス

駅至近で観光やビジネスの拠点に最適。1名利用ダブルルームでは140cm幅ワイドベッド採用。多種多様な朝食メニューを無料でご用意。全館無線LAN対応で快適な無料高速インターネットをご利用いただけます

コンフォートホテル天童

コンフォートホテル天童画像1 コンフォートホテル天童画像2 コンフォートホテル天童画像3

天童ホテル

〒994-0024 山形県天童市鎌田本町2−1−3

天童ホテル
↑施設の外観


交通手段:JR山形新幹線天童駅→徒歩約15分またはタクシー約3分
値段:10000~36750円

天童ホテル

天童ホテル画像1 天童ホテル画像2 天童ホテル画像3

湯の香松の湯

〒994-0025 山形県天童市鎌田本町2−2−54

湯の香松の湯
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東出口→徒歩約15分またはタクシー約5分
値段:19300~26250円

湯の香松の湯

湯の香松の湯画像1 湯の香松の湯画像2 湯の香松の湯画像3

栄屋ホテル

〒994-0024 山形県天童市鎌田2−3−16

栄屋ホテル
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東出口→徒歩約25分またはタクシー約5分
値段:10000~27300円

栄屋ホテル

栄屋ホテル画像1 栄屋ホテル画像2 栄屋ホテル画像3

天童グランドホテル舞鶴荘

〒994-0025 山形県天童市鎌田本町2−4−51

天童グランドホテル舞鶴荘
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東口出口→徒歩約15分またはタクシー約5分
値段:10500~18900円

天童グランドホテル舞鶴荘

天童グランドホテル舞鶴荘画像1 天童グランドホテル舞鶴荘画像2 天童グランドホテル舞鶴荘画像3

天童荘

〒994-0024 山形県天童市鎌田2−2−18

天童荘
↑施設の外観


交通手段:JR山形新幹線天童駅→徒歩約20分またはタクシー約5分
値段:28800~46400円

天童荘

天童荘画像1 天童荘画像2 天童荘画像3

ほほえみの宿滝の湯

〒994-0025 山形県天童市鎌田本町1−1−30

ほほえみの宿滝の湯
↑施設の外観


交通手段:JR山形新幹線天童駅東出口→徒歩約20分またはタクシー約5分
値段:12900~45100円

ほほえみの宿滝の湯

ほほえみの宿滝の湯画像1 ほほえみの宿滝の湯画像2 ほほえみの宿滝の湯画像3

松伯亭あづま荘

〒994-0024 山形県天童市鎌田2−2−1

松伯亭あづま荘
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東出口→バス山交ターミナル約10分篠田病院前下車→徒歩約5分
値段:14700~42000円

松伯亭あづま荘

松伯亭あづま荘画像1 松伯亭あづま荘画像2 松伯亭あづま荘画像3

ホテルビューくろだ

〒994-0024 山形県天童市鎌田1−3−11

ホテルビューくろだ
↑施設の外観


交通手段:JR奥羽本線天童駅東出口→バス天童温泉行き約5分天童わくわくランド前下車→徒歩約3分
値段:8000~8000円

ホテルビューくろだ

ホテルビューくろだ画像1 ホテルビューくろだ画像2 ホテルビューくろだ画像3

天童リッチホテル

〒994-0024 山形県天童市鎌田1−14−22

天童リッチホテル
↑施設の外観


交通手段:JR山形新幹線天童駅東出口→タクシー約3分
値段:5670~9975円

天童リッチホテル

天童リッチホテル画像1 天童リッチホテル画像2 天童リッチホテル画像3

ホテル王将

〒994-0025 山形県天童市鎌田本町1−1−14

ホテル王将
↑施設の外観


交通手段:JR山形新幹線天童駅→徒歩約10分
値段:8400~23100円

ホテル王将

ホテル王将画像1 ホテル王将画像2 ホテル王将画像3

天童旅行記

道元の、宋での只管打坐 の日々を辿る(by 彷徨人さん)

天童
        一人行く 旅の中空 蜀葵(からあおい)
  
  夜の徒然に,立松和平著『道元禅師』上下2巻を読み終わるや、当然の如く、早速道元の入宋を辿らねばという思いに駆られ、新たな“わが中国の旅”の準備が始まった。


  24歳の道元禅師が、師事していた建仁寺の明全和尚と一緒に、博多津より中国明州慶元府(現在の浙江省寧波市)を目指し、日本の商船で旅立ったのは、1223年3月下旬のことである。当時の入宋コースも、これまでに多くの遣唐使船が辿ったコースとほぼ同じで、まずは、船は五島列島を通過するや、東シナ海を一気に横切り,泥で濁る長江河口を目指し進んで行く。雨や風に晒され、波に揉まれながらも、揚子江河口から大陸を望みながら、陸に沿って、更に西に向かい、杭州湾を横切り、その先にある甬江(ようこう)河口で、潮待ちをし、満潮に乗り一気に甬江を上り、寧波の三江口の波止場に着いたのは、明確な記録はないが、国を出ておそらく十余日目であったろう。寧波(ニンポー)の三江口は、名前の通り、甬江、奉化江,そして余姚江の三川が合流する地点にある内港と言うか、河港である。道元のこの旅は、正師を求める、つまり仏祖釈迦との命脈を連ねるための旅であったが、三江口到着早々、道元は、僧侶としての資格不足を問われ、上陸することができなくなり,止む得ず船での生活をしばらく続けることになった。
  この河港での滞在中、道元に大きな影響を与えた出来事があり、後に道元は、『典座(てんぞ)教訓』の中で、この時のエピソードを語っている。港で上陸許可を待っていたある日、名刹阿育王山広利寺の典座(寺の食事係の僧)の老僧が、端午節の行事のための食事に使う椎茸を、日本商船を探し、彼が乗っている船に買いに来た。この老僧と仏法の話がしたかった道元は、早速応対し,今日は此処にお泊りになりませんかと誘うのだが、老僧は食事の仕度をしなければならないと言って、それを固く断るのである。道元は、『貴方のような徳のありそうな老僧が、坐禅や仏法の議論よりも,食事の仕度を優先させるのは、そこに何か良いことがあるのですか』と、執拗に尋ねると、老僧は笑いながら,『日本の若いお方よ、貴方は修行が何であるかがまだお分かりではないようですね』と言い残して、寺へと戻って行きました。その後、この老僧とは、道元が修行している天童寺に尋ねて来てくれた時と、この老僧が故郷の四川省に帰ることを知り、道元が、この老僧のいる阿育王寺を尋ね、別れの挨拶に行った時の、都合2回会っただけである。しかし、後に道元は、『あえて文字を知り、弁道を了するは、すなわち彼の典座の大恩なり』と述べている。


上陸を許された道元は、まずは、明全和尚が先に入山している臨済宗の天童山景徳寺に入るが、その後、現在の浙江省内を、正師を求め、五山十刹と言われる大寺院を順次遍歴するのである。




道元の半月余の生命を賭けた入宋に比べると、僕は日本を、午前9時に飛び立ち、10時半(現地時間)上海浦東空港着、リニアーモーターカーと地下鉄に乗り換え、11時50分に上海南駅に到着、駅近くの長距離バスターミナルを12時50分に出発する寧波行きの長途汽車(長距離バス)の席を確保し、高速道路を走り、最近開通した杭州湾に掛かる約40キロの寧波杭州湾大橋を渡り、寧波汽車南駅(長距離バス停)に15時半に到着した。そこから徒歩3分にあるホテルにチェックイン後、37度の気温に、しばしの休憩をとる。17時ごろにタクシーで、奉化江、甬江、余姚江の交わる三江口を目指し、奉化江に掛かる江厦橋に立ったのが、17時10分(現地時間)頃であるから、国を出て、9時間余で目的地三江口に着くことができたのである。橋の上から眺めると目の前には、3つの河の交わるパノラマが広がり、早速道元さんが上陸した地点を探し始める。800年前の道元さんが上陸した時とは、河の流れも、川幅も、周りの風景もすっかり変わってしまっているのは当然ではあるが、この地区は、老外灘として整備されつつあるので、今では、5年前に来た時の状況さえも思い出すことが難しいほどの変化が見られる。左手の堤防付近は公園として整備されており、その中に、些か異形であるが、遠目にも石碑ではと思われるようなものが見え、急いで下りて行った。木々に囲まれたあたりに石碑があり、石碑の表側に回ると、“道元禅師入宋記念碑”と刻んだ文字が、眼に入ってきた。
  その前にあるベンチにしばし座り、道元が正師を求め遍歴したお寺のうち、5年前に訪れたことのある天童寺、阿育王寺、そして天台山国清寺での、道元さんの”只管打坐”の日々を、いつの間にか想像していた。いつもの事ながら、方向の定まらない僕の思いは、今度は、永平寺の回廊を上り下りするたびに、その原型となった正師如浄和尚に出会った天童寺の廻廊に思いが巡り、若き修行の日々を思い出しては、自らを更に律したであろう道元の凄さに感嘆しながらも、この地と、遠き越前の永平寺との摩訶不思議な繋がりを、なぜか、とても面白く感じ、やがて嬉しくなってくるのである。異邦人であろうとも快く迎える大らかさと、命を懸けても真実を極めようとする健気さと謙虚さが,嘗ては日中の間に確実にあったのだと思わざるを得ない。その大らかさと健気さ、そして謙虚さは、今はどうなっているのだろうか。日中を思いながら、この大陸を旅する時の、常なる僕の思いでもあるだ。



  翌日、河姆渡遺跡に向かうため、前日到着した寧波南駅から、旧式の中型バスに乗り込んだまではよかったのだが、路上に出るやまずはエンスト。エアコンが切れると、体中の汗が一気に出始める。運転手は、特に慌てる風情もなく、手馴れた感じで、修理し始め、2、30分後に再び動き始めた。農村から山道に掛かるあたりで又故障、今度は10分ぐらいで修理完了。やがてT字型に交差する山道で、降ろされ、“この坂道をまっすぐ下りて行きなさい”と、車掌に言われるまま坂を下りていくと、まずは両側には建築途中で投げ出されたかのような建物が数棟建っており、その間を更に通り過ぎ、下っていくと、やがて川淵に突き当たる。その脇の小さな空き地の木陰に、年配の男女が座っており、私にそこに座るよう席を空けてくれた。向こう岸に渡る舟は間もなく出ると言いながら、私のことは何も聞かず、このあたりのことを、ぼつぼつと説明をしてくれるのである。その話から、目の前の川は姚江で、その対岸までの渡し舟があり、この渡しが、”河姆の渡”で、向こう岸に広がるのが河姆渡遺跡だということが分かってきた。対岸を眺めると、写真で見たことのある河姆渡遺跡の石碑が見え、実は、それでほっとしたのである。時間が来たのか、男は立ち上がり、小舟の準備をし始め、女は、自分の自転車の荷台に僕の荷物を載せるや、そのまま小舟に乗り込んで行くので、僕も続いて乗り込んだ。日差しの強い中、艪を漕ぐ音に些かの涼を感じながら、向こう岸には4,5分で到着した。丁度お昼であったので、遺跡見学の前に、舟着き場の前にある飯店に入り、昼食を取ることにした。河姆渡遺跡の真っ只中での野生料理の昼食である。


        夏草や 河姆渡5元の 渡し舟


  僕が河姆渡遺跡に興味を持ったのは、単に古代ロマンへの憧れに過ぎないのだ。稲は長江中流の遺跡で、9000年前の稲が炭化したものが発見されているが、陸稲だと言われている。ここ河姆渡遺跡では、7000年前の炭化した稲が発見されている。日本に水田の稲作技術が入ってきたのは2300年前だと聞いたことがある。この河姆渡に立つと、極めて単純な発想だが、当時の状況から見て、“稲作技術を持って、日本に渡ることのできる中国大陸の地域は、極めて限られてくるのではないか。河姆渡遺跡の民には、水田技術があり、しかも海での漁業もしており、その海に出て海流に乗れば、九州には2日間で着いたと言う実際の漂流者の話もあることからも、この地から日本への移住は極めて可能性が高いのだ”との思いが沸いてきた。長江文化圏の下流で平和に過ごしていた河姆渡の民が、天候の不順による食糧難から南下してきた黄河文化圏の勢力に追われ、大挙して海に逃れ、潮に導かれて日本に流れ着くと想像するのも面白いのではと考えたのである。太湖の辺りにいた倭人が、村長の娘卑弥呼の予知能力を頼りに、後漢の騒乱期に、一族で九州に逃れてくる小説を、昔読んだことがある。その影響もあるかもしれないが、わが思い込みは、極めて可能性のある渡来物語だと、この河姆渡に立ち、改めて確信を得たのである。


  河姆渡遺跡は、杭州湾に面する余姚市にあるが、その北隣に、魯迅や秋瑾女史の故郷であり、紹興酒でも有名な紹興市がある。紹興市は、12年前に、魯迅の故郷も見たくて、一度来たことがある。しかし町は大きく変わり、経済的にも大きく成長しているように見受けられる。翌日、この呉越は越国の古都を見学するには、輪タク(人力三輪車)に乗り、のんびりと廻るのが相応しいとばかり、早速、輪タクの親方と値段の交渉をし、輪タクで颯爽?と出発した。まずは秋瑾女史が処刑された軒亭口に向かい、秋瑾烈士記念碑と白玉の立像の前で写真を撮り、周恩来祖居、そして拡充整備されつつある魯迅文化広場を見学し、その後は、繁華街を横切り、越の古城の越王台に向かう。僕がこの街で一番の楽しみにしていたのは、何と言っても、特別においしい紹興酒を呑むことである。その夜は、口当たりは仄かな甘口、余韻に酸味を微かに残しながらの喉越しの感触を楽しみ、如何なる料理とも張り合わず、殺さず、控えめで、まろやかな”十年陳稽山清”をゆっくりと飲みつつ、魯迅の愛した紹興料理を堪能したのである。



  今回の旅行では、これまでの中国旅行でお世話になった人々を招待しようという計画を立てていた。今では、上海から蘇州まで在来新幹線(中国では、”動車組列車”と呼ばれているが、日本の新幹線車両と同系統である)で、30分ぐらいで行くことができる。そこで、場所は、魚米の里の蘇州で、今人気ナンバーワンだと言われている飯店は、獅子林と拙政園の中間に位置する蘇州民族博物館の裏手に当たる『呉門人家』(蘇州は嘗ては呉の国である)と聞いたので、早速この飯店を予約した。当日、9人の人が参加してくれ、和気藹々の時を楽しむことができた。お酒は、もちろんわが愛する名老酒”石庫門黒標“である。
  当日注文した主な料理は、『刺毛?筒』(?の字は、魚偏に、旁は善で、田うなぎのこと)『瓜姜桂魚糸』『八宝鴨』『黄?河鰻』(?の字は、火偏に、旁は悶で、ぴったりと蓋を閉め、とろ火で煮込む料理方法)であるが、土用の丑の日は過ぎていたが、夏バテ対策のため、特に、田鰻料理の『刺毛?筒』と、日本の鰻と同種類の鰻料理である『黄?河鰻』を注文したのだ。 (第50回)



  





表紙写真:寧波市三口江にある道元禅師の入宋記念碑









【旅行時期】2008/07/24~2008/07/30
【エリア】浙江省
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】彷徨人

山形天童のころ (3) 近くの温泉ガイド(by ぱぶさん)

天童
山形に住んでいると、温泉は身近。「いい湯だな〜、いい湯だな〜、パパンパパンパンパ〜」と調子良い。国道13号線に沿って沢山の公営温泉があり、週末に一つ一つ温泉めぐりをしても恐らく何ヶ月か掛かるだろう!でも、これはチャンスと、天童滞在中は結構各地の温泉をトライしたものだ。温泉内部の写真はなかなか撮れませんので、こんなところがあるよ程度のご案内です。

【旅行時期】2002/03/~2002/06/
【エリア】山形・天童・蔵王
【テーマ】温泉・エステ・癒し
【投稿者】ぱぶ

山形天童のころ (2) 朋有り、遠方よりきたる(by ぱぶさん)

天童
天童に住み着いてしばらくすると、東京にいる朋輩より、遊びに来たいとのコンタクトがあった。まだ、地元には精通していないので、それではゴルフを中心に、近くの山寺、蔵王辺りは如何?と返事する。もちろんゴルフは“待ってました”の連中なので、早速、3名が10月体育の日辺りにやって来ることとなった。

シーズンや良し。おそばも美味しいし、好天を祈り、当日を迎える。

【旅行時期】2001/10/07~2002/08/07
【エリア】山形・天童・蔵王
【テーマ】
【投稿者】ぱぶ

山形天童のころ (1) ぶらぶら散策(by ぱぶさん)

天童
山形天童に2年間ほど住んでいたことがある。

山形は農業県であって、お米で言えば「どまん中」(山形盆地)と言った銘柄や、庄内米で代表されるような美味しい米を作っている。果物はさくらんぼ、もも、すいか、りんご、ぶどう、梨と上質なもので特に、佐藤錦で全国に知れ渡っているさくらんぼは至福の味!

さくらんぼについては、天童を去って後も産地直送で毎年素晴らしい味のものを頂いている。梨のラ・フランス、庄内産のスイカは全国版である。

更に、遠い江戸時代以前から最上川を下って酒田に集められ、都(京都)との日本海交易で栄えたべにばなもある。都からのお土産として持ち帰った江戸雛も旧家に伝わっており、3月のひな祭りには各家でご披露される。

江戸時代後期には上杉鷹山に代表される貧乏藩の財政再建の一環として奨励されたそばの栽培が今に続く美味しい「そば」なのである!

文化的には何と言っても芭蕉の「奥の細道」の句碑が沢山あり、温泉も「おしん」で有名となった銀山温泉をはじめ、天童、蔵王・・・13号線に沿っても県内何処でも豊富な湯量と安価ではいれる素晴らしい公営温泉が満ち溢れている!

【旅行時期】2000/05/~2002/08/
【エリア】山形・天童・蔵王
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】ぱぶ

寧波とその周辺(6) 天童寺と阿育王寺(by 私家語さん)

天童
寧波とその付近を観光しました。移動手段を中心に紹介します。値段は2008年12月時点のもので、わりと頻繁に変更になりますので、目安です。

寧波市内より路線バスで天童寺と阿育王寺に行って見ます。

別のブログにも関連記事を載せました。

  • http://illinois.way-nifty.com/blog/2009/01/post-7322.html


  • 【旅行時期】2008/12/30~2008/12/30
    【エリア】寧波
    【テーマ】
    【投稿者】私家語